千葉ロッテマリーンズの歴史と優勝までのストーリー
千葉ロッテマリーンズが現在のチーム名になったのは1992年に本拠地を千葉に移してから。
前身はパ・リーグに加盟した『毎日オリオンズ』でした。
その後、大映スタ-ズや高橋ユニオンズを吸収し、大毎オリオンズ、東京オリオンズと名前を変え、69年からロッテオリオンズとなったのです。
下剋上を合言葉に再び日本一へまで輝いた歴史を振り返ります。
千葉ロッテマリーンズ
会社名:株式会社千葉ロッテマリーンズ
創設:1949年
所属リーグ:パシフィック・リーグ
本拠地:ZOZOマリンスタジアム(千葉県千葉市美浜区)
◾︎歴代チーム名
毎日オリオンズ(1950年 – 1957年)
大映ユニオンズと対等合併(1958年・開幕直前)
毎日大映オリオンズ(1958年 – 1963年)
東京オリオンズ(1964年 – 1968年)
ロッテオリオンズ(1969年 – 1991年)
千葉ロッテマリーンズ(1992年 – 現在)
◾︎獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回):2005年
日韓クラブチャンピオンシップ(1回):2010年
日本一(4回):1950・1974・2005・2010年
リーグ優勝(5回):1950・1960・1970・1974・2005年
◾︎球団の歴史
千葉ロッテマリーンズ・毎日オリオンズの誕生
1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズが結成されました。
毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織しており、戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成したのです。
日本プロ野球初のメジャー監督・バレンタインのチーム改革
1995年にマリーンズは日本球界初となるGM制度を導入し、かつてヤクルトスワローズを初優勝に導き、西武ライオンズの黄金時代を築いた広岡達朗氏をGMに迎えました。
その広岡が監督として招聘したのが、メジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督でした。
バレンタイン監督の改革はまずユニフォームの変更。
当時のマリーンズのユニフォームの一部にはピンク色が使用されていて、ピンクは戦うチームの色として相応しくないと変更を願い出たのです。
バレンタイン監督はアメリカでは行われない1,000本ノックをみずからの現役時代のセカンドのポジションで受けるなど、日本野球の理解に努めました。
また、ベンチ入りできる25人の選手とファンも共に戦っていることを示すため、『背番号26』をファンの背番号として欠番扱いにし、常に背番号26のユニフォームをベンチに掲げてファンとの一体化にも努めました。
こうしてチーム改革を果たし、オリオンズ時代から続く9年連続のBクラス(4位以下)に終止符を打ち、チームを2位に躍進させたのです。
しかし、みずからを招いた広岡GMとの間に確執が生じ、1年限りで解任に…。
再びバレンタイン監督へ・栄光と挫折
バレンタイン監督が去った後のマリーンズは再びBクラスが続いて低迷。
球団はチーム再建の切り札として2004年、再びバレンタインを監督として呼び戻します。
既に広岡はGMの職を去っていた為、チームの全権を握る監督として就任しました。
そしてサンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。
パンツは通常のストライプ)を採用。
監督再就任1年目は、初めて監督を務めた95年以来となる勝率5割をキープしての4位。
勝負となる翌05年、バレンタインはプロ入り4年目の今江敏晃、3年目の西岡剛の2人を抜擢しようと考えます。
そこでキャンプの頃からコーチや記者らに対して、今江と西岡に大きな期待をしていると事あるごとに話しました。
当然、記者もコーチもバレンタインが期待していることを今江・西岡に伝えます。
実はこれは、自分で直接伝えるより第三者の伝聞として伝える方が効果が大きい、心理学で「ウィンザー効果」と呼ばれるもの。
2人はバレンタインの起用に応え、今江は前年の41試合出場、打率.257から132試合、打率.310、西岡は63試合、打率.255から122試合、打率.268の上に盗塁王のタイトルを獲得するに至るのです。
さらに、この年は渡辺俊介の15勝を筆頭に、清水直行、小林宏之、セラフィニ、久保康友、小野晋吾と6人の10勝以上の投手が誕生しました。
チームもこの年から開始された交流戦で優勝を果たすと、リーグ戦2位ながらプレーオフ(現クライマックス・シリーズ、以降CS)に優勝してリーグ優勝を飾り、日本シリーズ、さらにアジアシリーズとすべて優勝を果たす大躍進の年となりました。
毎試合のように先発メンバーの打順を入れ替えて臨むバレンタインの戦法は、「ボビー・マジック」と呼ばれました。
しかし、以降のマリーンズは07年の2位を除いてBクラスに低迷、バレンタイン監督は09年限りで退団しました。
無敵の強さを誇った05年以降のチームの不振は、主力選手のケガや不振、移籍など様々な理由が考えられますが、最大の要因はすべての部門で優勝を果たしてしまったチームが、次の目標を見出すことができなかったことにあります。
後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格。
千葉ロッテマリーンズ・下剋上を合言葉に再び日本一へ
そんなマリーンズが再び輝きを見せたのが2010年。
10月1日の最終戦で勝利して北海道日本ハムファイターズとの熾烈な3位争いを、0.5ゲーム差・勝率わずか3厘差で制すると、CSで2位の埼玉西武ライオンズ、1位の福岡ソフトバンクホークスを退けて日本シリーズに進出。
中日ドラゴンズとの日本シリーズにも勝利し、リーグ3位のチームが日本一に輝く「下剋上」を成し遂げたのです!
通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年南海ホークス以来37年ぶり。
この3位からの日本シリーズ優勝は、2014年までマリーンズ以外のどのチームもなしえていない偉業です。
目標を見つけると、チーム一丸となって目標を達成するマリーンズの特徴をよく表すエピソード。
今後もそれを見せつけてもらいたいですね。