オリックスバファローズ・波乱万丈な歴史と伝統を持つ球団
オリックスバファローズは2015年7月13日に、阪神タイガースに続き史上2球団目の通算10,000試合を記録。
それほど歴史と伝統を持つ球団ですが、順風満帆だった訳ではありません。
阪神淡路大震災や球団の吸収合併などを乗り越えてきた、オリックスバファローズの歴史を振り返ります。
オリックス・バファローズ
会社名:オリックス野球クラブ株式会社
創設:1936年1月23日(84年前)
所属リーグ:パシフィック・リーグ
本拠地:京セラドーム大阪(大阪府大阪市西区)
◾︎歴代チーム名
阪急軍(1936年 – 1946年)
阪急ブレーブス(1947年 – 1988年)
オリックス・ブレーブス(1989年 – 1990年)
オリックス・ブルーウェーブ(1991年 – 2004年)※大阪近鉄バファローズを吸収合併
オリックス・バファローズ(2005年 – 現在)
獲得タイトル
日本一(4回):1975・1976・1977・1996
リーグ優勝(12回):1967・1968・1969・1971・1972・1975・1976・1977・1978・1984・1995・1996
◾︎球団マスコット
2011年シーズンより登場したオリックス・バファローズ公式マスコットの「バファローブル」と「バファローベル」。
やんちゃでパワフル、好奇心旺盛なお兄ちゃんと、愛嬌たっぷり優しい妹の2人。
お互いをフォローし合いながら、チームを盛り上げています。
◾︎球団の歴史
▷阪急軍の誕生
球団名に企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団です。
阪急東宝グループ創業者である小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見し、1935年に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を結成したのを受け、アメリカ出張中にワシントンから電報で球団設立を指示し、1936年1月23日に大阪阪急野球協会が設立されました。
オリックス・リーグ優勝と球団の売却
84年に西武の3連覇を阻止してリーグ優勝を飾りました。
88年の成績は4位ながら、75年からの14年間で4連覇を含むリーグ優勝5回、日本シリーズ優勝3回、2位4回、3位1回と安定した成績を残した中、1988年10月の阪急からオリックス(当時はオリエント・リース)への突然の球団売却。
売却の理由は長年続く球団の赤字でした。売却先がオリックスになったのは、当時、球団の親会社である阪急電鉄とオリックスは三和グループ(旧三和銀行を中心とした企業グループ)の一員であったことから。
その為、記者会見に臨んだ三和銀行頭取の渡辺滉氏は、「グループ内での組織変更」と説明しましたが、阪急球団社長の土田善久は無念の涙を流しました。
その涙の背景には、「私が死んでも宝塚とブレーブスは売るな」と言い遺した創業者・小林一三の言葉があったから。
阪急からオリックスに出された条件は、上田の監督留任、西宮球場の使用継続とブレーブスの名を残すことという3つでした。
土井正三監督の就任・条件の消滅
しかし、2年後の1990年、2年連続の2位で優勝を逃した上田が辞任を表明します。
後任には読売ジャイアンツのV9戦士の一人、土井正三が就任。
これを機に本拠地を神戸グリーンスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)に移転、チーム名もブルーウェーブに変更されました。
球団移譲時に阪急が出した条件は、わずか2年ですべて消滅したのです。
イチロー選手の登場
94年からオリックスを率いたのが仰木彬監督です。
仰木監督は近鉄監督時代に選手として見ていた新井宏昌を打撃コーチとして招聘。
そして仰木・新井に見出されたイチロー選手は、その才能を遺憾なく発揮し、前人未到のシーズン200本安打を達成するのです。
この記録は130試合制ではいまだにイチロー選手 唯一人が有する記録!
1991年、イチロー選手はブルーウェーブ時代のオリックスにドラフト4位で入団し、1993年には代名詞となる「振り子打法」を作り上げました。
1994年に登録名を本名の「鈴木一朗」から「イチロー」に変更した。
1番打者に定着したイチロー選手は、史上初のシーズン200本安打を達成し、パリーグ新記録となる打率で首位打者を獲得。
打者では最年少となるシーズンMVPも獲得しました。
その後も1995年には打者五冠王、1998年にはプロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得など、偉業を次々と成し続け、チームに大きく貢献。
そして2000年、イチロー選手の活躍の場はメジャーリーグへと移りました。MLBに移籍後も、
イチロー選手の背番号51は誰にも使用されず、欠番のままとなっているのです。
阪神淡路大震災
当時の本拠地・神戸市が甚大な被害を受けた一方で、神戸市西区内の強い地盤の上に建つ球団所有の選手寮兼室内練習場では被害が軽微にとどまりましたが、春季キャンプ以降のスケジュールの大幅な変更を余儀なくされたほか、一時は神戸での試合開催が危ぶまれました。
しかし、地元・神戸市出身の宮内オーナーが、「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。
一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」と神戸での開催を主張。
結局、当初の予定に沿って神戸で公式戦を開催することが決まったため、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にユニフォームの袖に「がんばろうKOBE」の文字を刻み、シーズンへ臨み、リーグ優勝を果たしました。
被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えたのです。
さらに翌96年もリーグ制覇し、日本シリーズでは巨人を破り、神戸に日本一のチャンピオン・フラッグをもたらしました。
球団二度目の激震・関西圏の球団の吸収合併
2004年に起きたオリックスと近鉄バファローズの吸収合併は、球界に大きな波紋を拡げました。
5球団ではリーグ戦開催が困難として、さらに1球団を合併させて1リーグ10球団構想がオーナー会議で取り沙汰される一方で、労組・日本プロ野球選手会は会長・古田敦也を中心に2リーグ12球団維持を訴えます。
日本プロ野球史上初となる選手会のストライキも実行されましたが、世論の大半は選手会側を支持しました。
そして、その後の紆余曲折を経て、オリックスと近鉄は合併して翌年からオリックスバファローズに。
数々の紆余曲折を乗り越え、今のオリックスバファローズはあるのです。